繊維リサイクル・製品製造

繊維リサイクルの歴史【010】「ちり紙交換」の登場と故繊維業界

高度経済成長により日本人の暮らしは豊かになりました。所得が上がる一方、生産方式の合理化、技術革新、また海外から原料が安価に入手できるようになったことにより、もはや再生資源の値段が上がることはなく、業者としては価格の低下分を数量で補填するしかありませんでした。

古布

経済発展にともなって印刷会社や製缶工場の裁断屑、縫製工場の裁断屑、鉄工所の金属屑などが大量に発生するようになりました。また流通業ではそれまでの木箱がダンボールに変わり、その屑がスーパーなどから大量に発生するようになりました。買出人や収集人が減り、屑物の集まらなくなった建場(業者がその日に集めた廃品を買取る問屋のことです)にとって、唯一の生き残りの道がこうした資源の回収を担う坪上業者になることでした。しかし高度成長で人件費が上がり、従来のような集めた種々の廃品を選分するというような手間のかかる作業はもはやできなくなりました。こうして現在のように、古紙だけ、鉄屑だけ、というような回収の専門化が進んでいったのです。

鉄やガラスなどは工場発生の屑が大量にあり、またバージン原料も安くなったために、家庭から出る空き缶や割れた瓶など誰も回収しようとはしなくなりました。逆に古紙業界は家庭から大量の新聞・雑誌が発生することに目をつけ、昭和39年に「ちり紙交換」を始めます。この「ちり紙交換」は昭和40年には全国に広がり、今でも一部の地域では実施されています。

こうした伝統的回収システム崩壊の流れの中で最も打撃を受けたのは、他でもない、ぼろを扱う故繊維業界でした。というのは、故繊維の主力をなすウエスは洗いざらしの布でなければ良質のウエスにならなかったため、他の再生資源のように縫製工場の裁断屑が大量に回収というわけにはいかなかったからです。しかも家庭から発生するぼろは古紙に比べればきわめて少量であるため、独自に回収車を出しては回収コストが合いませんでした。そんな中登場した「ちり紙交換」は、故繊維業界にとって「渡りに舟」だったのです。

注:メーカーのように均質で数量のまとまった廃品がでるところを「坪」といい、この坪から回収を行なう業者を坪上(つぼあげ)といいました。