繊維リサイクル・製品製造

繊維リサイクルの歴史【006】軍需景気で活況を呈するが

昭和2年の金融恐慌、続く昭和4年の世界恐慌により故繊維業界も他の産業と同様、物が全く動かないという深刻な状況に陥りました。ところが昭和6年に満州事変が起こります。既にお話したように兵器のメンテナンスなどに欠かせないウエスですから、この軍需を受けて故繊維業界は一転して活況を呈しました。軍需で伸びたのはウエスだけではありません。ガラ紡原料は軍服やテント、毛布などに使われましたし、綿ぼろはセルロイド原料や火薬の原料になるなど、当時故繊維はあらゆる場面で活用されていたのです。

その後、日中戦争に突入すると大陸での戦争は泥沼化の様相を呈し、次第に物資が不足するようになります。日中戦争の始まりは昭和12年の7月ですが、この年の12月、綿製品にスフを30%混入することが法的に義務付けられました。いわゆる物資統制の始まりです。

物資統制はやがて国民の生活必需品である衣類にも及び、昭和13年4月国家総動員法が公布され、6月29日にはついに綿製品の国内向け製造販売が禁止となりました。このよう物資の極端な欠乏状態の中では自ずから手持ちの衣類を大切に使うか、あるいはリサイクルするしか方法はありません。しかし商工省の見解では禁止された綿製品はあくまでバージン原料である綿花を原料とする物とされていたため、これまで洋式に押されっぱなしだったガラ紡が再び脚光を浴びるようになったのです。バージンが駄目ならリサイクルというわけです。また繊維工業はやがて軍需を除いて不要不急の業種と見なされるようになり、また鉄資源の不足から多くの工場で洋式の機械がスクラップにされました。したがって、一般の国民生活を支える衣料供給は設備の面でもガラ紡に頼らざるを得なくなったのです。しかし昭和16年、太平洋戦争に突入すると、そのぼろでさえも不足するような状態となってしまいました。

国家総動員法に基づく物資動員計画は国内のあらゆる物資を国が掌握し、それを戦争に使おうというものでした。このため昭和13年にまず商工省の指示で「廃品回収懇談会」が設けられます。当時の故繊維業界はイメージが廃品の盗品とだぶることもあってか、明治以来どちらかというと取締りの対象となる日陰的存在でしたが、その取り締まっていた国が一転して業界の把握に乗り出したのです。昭和14年になると、「活かせ廃品、興亜の資源」といった官製のスローガンが喧伝されるようになります。皮肉なことに取締りの対象だった故繊維業界は一転してお国のために奉公する存在となったのでした。

しかし昭和15年から16年にかけて故繊維を含む屑物業界は商工省直属の統制会社の下に統合されることになりました。これに加われなかった問屋や建場は廃業に追い込まれ、大勢の買出し人なども仕事を失い、軍需工場や戦場に駆り出されていくことになりました。

戦中ウエスイメージ