繊維リサイクル・製品製造

ウエスものがたり【第三回】日本の主要輸出品目だったウエス

一方、開国したばかりの日本に大量の綿布があることに気づいた西欧諸国はきっと驚いたことでしょう。われわれ日本人は木綿というと何か庶民的な、安いものというイメージを持っています。例えば徳川家光が慶安2年(1649年)に出したとされる、俗にいう「慶安のお触書」には「(前略)百姓は衣類之儀、布木綿より外は帯、衣裏にも間敷事」とあり、貧しい庶民でも木綿は着ても構わない、つまり木綿は贅沢品でないという認識が江戸時代の初期からあったことを示しています。ところが西欧諸国において木綿や麻は大変な貴重品でした。18世紀のヨーロッパで最大の貿易は何と奴隷貿易だったわけですが、その理由は砂糖や綿のプランテーションに大量の労働力を必要としていたからで、裏を返せばそれほど当時の西欧諸国は木綿の確保に躍起になっていたということなのです。余談になりますが幕末に日本と修好通商条約を結ぶために来日したスイスのアンベールは当時の江戸深川を観察し、「(前略)麻は、ヨーロッパの織物としては、最も高価なものなのに、日本のような国ではきわめてつまらぬものとみなされているのである」(『続・絵で見る幕末日本』講談社学術文庫)とわざわざ本国への報告書に書き残しています。

加えて日本人には当時から風呂に入るという習慣が一般庶民の間にも浸透していました。現在のわたしたちの感覚からいえばいかにも当たり前のようなのですが、当時の欧米諸国はまだ風呂に頻繁に入るという習慣がありませんでした。実際、アメリカの大統領が住むホワイトハウスでさえ初めてバスタブが設置されたのは1853年、つまりペリーが江戸湾に現れた年のことだったのです。ですから先ほどと同じく幕末に日本を訪れた欧米人は一様に頻繁に入浴するという日本人の習慣に驚いています(尤も彼らは日本人に皮膚病や卒中で死ぬ者が多いのはこの入浴という習慣が原因である、というように否定的に捉えていたようです)。話がそれてしまいましたが、当時の日本は一般庶民に綿布が普及していたばかりでなく、入浴の習慣により洗い晒しの綿布が豊富に存在するというまさに良質のウエス原料を産出する土壌があったのです。

先進工業国である欧米諸国が大量に消費する拭き物に最適な綿布に着目したのは当然の成り行きといえました。ウエスは欧米向けの輸出商品として一大産業となり、昭和10年の統計では日本の主要輸出品目第10位に位置するほどまでに成長したのでした。ウエスの輸出はその後、戦後の混乱期を除き高度成長期まで盛んに続きましたが、日本がコスト高の国になったこと、また昭和40年代以降輸出先であった欧米でも日本の技術を真似てウエスを製造するようになったことなどから今ではほとんど行なわれなくなりました。

続・絵で見る幕末日本 (講談社学術文庫)
A. アンベール
講談社

このアイテムの詳細を見る