繊維リサイクル・製品製造

繊維リサイクルの歴史【009】伝統的回収システムの崩壊

昭和29年の秋、東京や大阪の一部の学校で廃品の「学校回収」が行われました。今日行われている「集団回収」と似ていますが、これは児童に家庭から古新聞や古雑誌、ぼろ、空き瓶、鉄くずなどを持ってきてもらい、それを売却して学校の諸経費に当てようというものでした。

今日ならば学校の集団回収に文句をいう人はいないでしょうが、当時この運動は買出人や建場(収集人から再生資源を集荷する業者)関係者の反発を招きました。このころはまだ都内だけで買出人と収集人合わせて二万人近い人が屑物を集めて生活していましたから、それなりに抵抗があったのです。しかしこのような今からではちょっと考えにくい問題も、やがて物が豊富に出回る時代になると自然に消滅していきます。日本は歴史を通じて常に物の足りない時代であったのですが、高度経済成長を遂げたことにより初めて「物が余る」という時代に突入したのです。

物余りの時代になったことにより、「くず屋」と呼ばれた資源回収業者は資源を回収しても生活できないという事態に直面するようになりました。東京都内のデータによると、わが国の経済発展とは裏腹に屑物の買出人や収集人の数は昭和27年をピークに減少の一途をたどっています。商売として成り立たなくなったこと、後継者がいなかったことなどが原因と考えられています。こうした動きに昭和39年に開催された東京オリンピックが拍車をかけました。この年、都内だけで収集人が一度に2000人も減少しました。その理由は、東京オリンピックを控え都内からゴミ箱が一斉に撤去されたためです。

東京都のごみ収集は当時、「厨芥」と「雑芥」の二分別で行われていました。「厨芥」とは台所の生ごみのことで、「手車」という大八車に木枠を取り付けたような車が回収しました。「雑芥」は紙屑や木屑、ぼろ、空き缶、ガラスなど、生ごみ以外のごみを言います。これは家の外の道端に設置したゴミ箱に捨てました。これを荷車やトラックに積んで回収していたのです。お金を払って資源を回収する買出人に対して、道端からごみを拾い集める業者を「ばた屋」とか「拾い屋」と言いました。彼らにとって文字通り道端のゴミ箱が大切な生活源だったのですが、これが東京オリンピックで景観を損なうという理由から一斉に撤去されてしまったことにより、大勢の収集人が廃業に追い込まれたのでした。いずれにしても物が余るようになりつつあった時代ですから、遅かれ早かれ商売替えせざるを得なかったのかもしれません。

東京オリンピックを機にゴミ箱が一斉撤去されたことにより、ゴミ収集は今日行われている「ステーション方式」に変わります。これは業者が回収にくるのを待たなくても良いので住民には当初から好評でした。しかしこうしたごみ収集の近代化が、一方では何でも気軽に捨てるという習慣を助長した一因になったのかもしれません。

いずれにせよ時代の流れとはいえ、江戸時代から続いた町のくず屋さんという生業はこうして衰退してゆき、屑物が建場に集まり、選分され、問屋を通して工場に送られるという伝統的な資源回収システムは昭和30年から40年の初めごろにほとんど崩壊してしまったのです。

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