繊維リサイクル・製品製造

繊維リサイクルの歴史【007】戦禍からの復興

戦火が激しくなるにつれ、生活物資はますます窮乏して行きました。繊維についても、前回お話した綿製品にスフを30%混入する規制などは最早遠い過去の話となり、桑の皮などおよそ繊維と名のつくものは何でも混入するようになりました。毛織物に至っては犬や牛の毛まで用いられ、羊毛が一割でも入っていればそれこそ上等な毛糸として流通したのです。このように物資が底をついた上、さらに空襲が追い討ちをかけます。鉄くずと違い、ぼろや紙は空襲とともに灰燼に帰してしまいました。

昭和20年、戦争が終わりました。ぼろの買い入れは自由になり回収したものを統制会社に売る仕事が再開され始めましたが、市中から回収されるぼろはとことん使い古されたひどいものばかりだったので、この時期の回収は軍需工場や占領軍の払い下げ物資を細々と扱っていたに過ぎませんでした。商工省は昭和22年、戦時中以来の故繊維維持特別回収を実施しました。この場合は戦時中と異なり民需のためのガラ紡原料確保が目的だったわけですが、故繊維維持特別回収は全国的におよそ一年がかりで実施され、これを機に戦前の統制時代に入る前の組合が各地で次々に再建され始め、岡崎などのガラ紡産地もようやく活気を取り戻しつつありました。

昭和25年6月25日、朝鮮の三十八度線で戦火が起こりアメリカ軍を主力とする国連軍が参戦すると、最も近い日本がその出撃基地および物資の補給基地となりました。その結果、いわゆる朝鮮動乱特需が生まれ、日本経済と共に屑物業界も沸き立ちました。業界の中でこの好景気は「金へん、糸へん景気」などと呼ばれました。漢字で書いて「金へん」や「糸へん」のつくもの、すなわち金属や繊維が軒並み値上がりしたためです。既に好調だったガラ紡産地はさらに活気づき、特に「ガチャ万時代」と呼ばれました。「織機がガチャンと音をたてる度に一万円稼ぐのだ」という意味です。

しかし昭和28年7月に朝鮮休戦協定が調印されると、業界は一転して大不況となり、高値を追って在庫を積み増ししていた業者は相次いで苦境に陥ることとなったのです。

古布イメージ