繊維リサイクル・製品製造

繊維リサイクルの歴史【004】反毛のはじまり

イギリスの産業革命が毛織物、綿織物から始まったように、近代化当初産業の花形は繊維工業でした。洋紙という全く新しい技術を入れなければならなかった製紙工業とは違い、繊維工業は諸藩で産業奨励が盛んに行なわれていた背景があるためか、まず国内における技術改良から発展しました。

明治8年長野県の僧、臥雲辰致が独自の技術で綿紡績機を開発します。これは紡機を回すとガラガラと音がしたことから「ガラ紡」と呼ばれました。小型の機械ではありましたが、従来手で糸を紡いでいた時代に比べ生産性を数十倍から百倍も高める当時としては画期的な発明でした。もちろんそれ以前から慶応三年に島津藩が洋式紡績工場を建設したのを始め、明治5年には官営富岡製糸工場が開業するなど西洋の技術も導入されてはいましたが、「ガラ紡」は一人で扱える小型のものであったことから、伝統的な綿糸の産地にたちまち普及していきました。

しかし明治20年ごろになると西洋式紡績工場も軌道に乗り、両者のシェアは逆転します。紡績の主役から退いた「ガラ紡」はその後、ぼろをもう一度綿状に戻して糸を作る地場産業(これを通常の紡績と区別して特殊紡績と呼びます)で活躍しました。さて、大正時代にはこのぼろを綿状に戻したものを原料として足袋底や帆布、じゅうたんに用いる緯糸などが生産されるようになりますが、こうしたぼろを綿に戻す再利用技術を「反毛(はんもう)」と呼んでおり、この技術は現在でも引き継がれています。

反毛する素材としては木綿や毛など様々にありますが、反毛の始まりは木綿よりも毛織物が先で明治37年に始まったと言われています。毛織物は近代化に伴いまず洋式の軍服に始まり、羅卒(警察官)、郵便夫、鉄道員の制服、官吏(役人)の制服など官需が先行しました。当時西洋の服飾の中心は羊毛ですから、西洋化とはすなわち服飾において毛織物を大量に必要とするということでもあったのです。

当然毛織物の原料である羊毛の国産化が試みられましたが、結果はことごとく失敗におわり、わが国は羊毛を海外に依存せざるを得ませんでした。そのため毛織物は大変貴重なものであり、一度使った毛織物からもう一度糸を再生する技術が必然的に発展したものと考えられます。

ガラ紡績でできた雑巾